千年祀り唄
―宿儺編―


8 残鬼


それは遠くから響いて来た。微かに揺れる鈴の音。そして、赤子達の笑い声が……。
人気の無いお堂の中でまどろんでいた和音は、急いで立ち上がろうとして扉の節目に手を掛けた。が、完全に閉められていなかった扉は簡単に開いてしまった。バランスを失った和音は勢いで外に飛び出し、階段を転げ落ちた。和音は2、3才の幼児の姿をしていた。そして、頭には毛糸の帽子を被っていた。彼は落ちたままの状態で尻を突いて座っていた。足元には供えられていた金平糖やまんじゅうが散らばっていたが、和音の足は異様に細く、あらぬ方向に折れ曲がっていた。

「いたーい!」
和音は頭を押さえて呻いた。外の空気は冷たく湿気っていた。茂みからは鈴虫の声が響いている。それに混じってまだ鈴の音は聞こえていた。
「まって!」
和音は叫んだ。が、鈴の音はどんどん離れて行ってしまう。和音は慌てて少年の姿になるとその後を追った。
(あの人なら知っているかもしれない……)
それは黒い着物を着た男だった。腰には刀を差していて、その柄に巻かれた紫の組紐に付いている鈴が鳴っていたのだ。

それは、無垢と言われる男に違いなかった。その者はこの世とあの世の狭間に生きて、生まれる前の赤子を預かる者だという。
(彼なら、ぼくの片割れの魂の在処を知っているかもしれない)
その噂を聞いた時から、和音は無垢を探し求めて彷徨った。噂には聞いても、誰もその者を見たという話はなかった。無垢は汚れを知らず、赤子を汚してもいけなかった。人も妖怪も触れる事の出来ない境界で、無垢と赤子達は暮らしているのだ。そして、彼らはこの世の境を徘徊し、赤子を宿すべき母胎を探す。彼らは不定期にこの世の近くにやって来る。その時こそが接触するチャンスだった。このお堂は子宝祈願で有名だった。子どもを願う夫婦がよく訪れて、供え物をする。ここで待っていれば、無垢達が訪れるかもしれない。そう考えた和音は、ずっとこのお堂で待っていたのだ。そして、今日、とうとうその姿を捉えた。

「待ってよ、無垢! 訊きたい事があるんだよ」
少年は霧の奥深くまで追った。が、そこからかき消えるように無垢も赤子達も姿を消してしまった。
「待ってよ! どうしても教えて欲しい事があるんだ!」
しかし、林のどこにもその姿はなかった。風に枯れ葉が舞い、紅葉の葉が薄く色づき始めていた。
和音は仕方なくお堂の前まで戻ると皿を拾い、散らばった菓子をその皿に戻した。開いたままの扉が風に吹かれてカタカタと鳴っている。扉の奥は3畳程のスペースがあり、行事で使う古い道具が収納されていた。そこは床の上に茣蓙が敷かれただけの簡素さだったが、和音と母が雨宿りするには十分なスペースがあった。

和音は石段を登ってお堂の中に入った。その時にはもう2、3才の幼児の姿に戻っている。見ると扉の敷居の所に赤い金平糖が一つ転がっていた。和音はそれを指で器用に摘まむと口に入れた。
「うん。あまーい!」
彼は満足そうに笑うと、時間を掛けてその金平糖をなめ回した。
和音は仰向けに寝転ぶと天井を見ながら考えた。
(あれが無垢か。あしたもくるかな?)
和音は無垢が付けていた鈴の音を思い出してにんまりした。
(あの音はおぼえた。あとは、あした)


それからまた、時間が過ぎ、月が昇る頃になると母が戻って来た。
「和音。お食事にしましょうね」
母はカステラをミルクに溶かし、スプーンで掬って和音の口に入れた。
「どう? これはおいしい?」
「うん。ママ、おいしいよ」
「デザートにりんごもすったのよ」
和音は固形物を受け付けなかった。いつもこうして母が用意した離乳食のような食事をした。それが母の努めだった。

「ねえ、ママ。きょうは無垢がきたんだよ」
「まあ。それでお話は出来たの?」
「ううん。でも、鈴の音をおぼえた。だから、あしたはだいじょうぶ。きっとうまくいく」
「そうね。きっと……」


そして、翌日。母が出掛けた後。和音はお堂の中にいた。が、風もないのに扉が揺れた。小さな爪が引っ掻くような音が聞こえる。
(なんだろう?)
和音はそっと扉を開けて見た。そこには茶色い毛並みの小さな生き物がいた。
「こんにちは」
和音が挨拶した。が、それはびくっと震えて後ろに下がった。
「ぼく、なにもしないよ」
それは跳ねるように階段を駆け下りると一目散に林の奥へ逃げ去った。

「あれは、なんだったんだろ? ネコでもないし、ウサギでもない。ネズミ? それともイタチかなあ。ママにきいてみよう」
和音がそんな事を呟いていると、林の向こうの小道から人が近づいて来た。お堂にお参りに来た人達だ。和音は急いで扉を閉めると格子の隙間から覗いた。それは若い夫婦だった。手には団子や風車を持っていた。女性はそれを供えると熱心に祈った。
「どうか可愛い赤ちゃんを授かりますように!」
男も祈った。
「丈夫で元気な男の子が生まれますように!」
そして、手にしたくまのぬいぐるみと野球のボールを供えた。

(あれであそびたいな)
和音は供えられた物を見つめた。団子やまんじゅうは食べられなかったが、ぬいぐるみや風車はいいなと思った。ボールは固そうだったが、転がすにはいいかもしれない。和音はそれが早く欲しくて、夫婦が階段を下りて行くとそっと扉を開け、ぬいぐるみに手を伸ばした。すると首に付いていた鈴がちりりと鳴った。その音に女が振り返った。そして、和音と目が合った。
「まあ! 赤ちゃんが……」
女性は小走りにお堂の前に戻って来た。

半開きのままの扉の前で和音がちょこんと座ってぬいぐるみを抱えている。頭には毛糸の帽子を被り、繋ぎの赤い服を着ている。
「だれ?」
和音が訊いた。
「こんにちは。ママは一緒じゃないの?」
「うん」
和音が頷く。
「いつからここにいるの?」
和音はじっと女を見つめた。
「わかんない」

「名前を教えてくれる?」
「和音」
「そう。和音君っていうの。いいお名前ね」
そこへ男も戻って来て訊いた。
「どうしたんだ? 親はいないのか?」
「ええ」
女が頷く。
「和音君っていうんですって……。とても可愛い顔をしているわ」
女は男を突いて少し離れたところで会話した。

「ねえ、あの子を連れて帰りましょうよ」
「何だって? そんな事したら誘拐じゃないか」
「でも、変じゃない。あんな小さな子が一人で……。もしかして、捨て子なんじゃないかしら。だとしたら、きっと私達に縁があるのよ。だって、子宝祈願に来たお堂の前にいるなんて……。きっと神様が私達に授けてくださったのよ。ねえ、あなたもそう思わない?」
妻の言葉に、夫は早口で返した。
「だからって…よく調べてみなきゃ……。どこの誰の子だかも知れないんだぞ。遺伝的な病気とか、身内に犯罪歴がないかとか調べてからじゃないととても養子になんて出来ないよ。それに、君だってまだ妊娠する可能性だってある」
「あら、そしたらそしたでいいじゃない。兄弟が出来て……」
「そんな簡単には行かないよ。犬や猫の子じゃないんだから……」

そうして男が和音の方に近づいて来た。
「君、和音君っていうのかい? パパやママはいないの?」
子どもが頷く。
「おうちは?」
「わかんない」
「年は幾つ?」
和音ははじめ、指を2本立て、それから3本立てて見せた。
「3才? それにしては小さいな。おいで。おじちゃんが遊んであげよう」
「ほんと?」
和音がぱっと顔を輝かせて両手を伸ばした。男は子どもを抱き上げようとしてはっとした。和音の身体はあまりに軽く、見ると足がだらんと垂れ下がっている。しかもまるで骨か棒のような細さだ。

「君、足が……」
「ぼく、あるけないの」
そう言って微笑む顔は何ともいえない愛らしさだった。が、足に温もりはなく、弾力もなかった。
「こんなに可愛い顔をしているのに……!」
女が目頭を押さえて顔を伏せた。
「やっぱり、警察に届けよう」
男が言った。
「わかっただろう? 訳有りなんだよ。だから、ここに置き去りにされたんだ。俺達が育てる義務はない」
「でも……」

「俺達にはまだ希望があるんだ。きっと丈夫な子が生まれるさ。自分から荷物をしょい込む事なんかないよ。そうだろ? 早く警察に届けよう。そうすればどこかの施設で面倒見てくれるさ」
男は必死に女を説得する。
「しせつってなあに?」
和音が訊いた。
「ああ、とても素敵な所だよ。君のような子がたくさんいる」
「あそんでくれないの?」
「そこに行けばたくさん遊べるさ」
「でも、おじちゃんがあそんでくれるっていったよ」
「ごめんよ。おじちゃん達は忙しいから……また、今度ね」

「あそんでよ!」
和音は両手を伸ばして男の首に絡み付いた。その手は冷たく、幼児の力とは思えないような強い握力があった。そして、おもちゃの持ち手を掴むように男の首をぎゅっと握った。
「な、何をする? 放せ!」
男は驚愕して和音を見た。和音はにこにこと笑っている。
「あそんで!」
耳元で囁く。
「ねえ、あそんでくれるっていったじゃない。あそぼうよ、おじちゃん。ぼく、あそびたいの」
「やめろ! 手を放せ!」
男が必死にその手を払い、大声で怒鳴った。
「ちょっと、やめなさいよ。和音君はまだ小さいのよ」
女が止めようとした。その時、和音の頭から帽子が脱げて地面に落ちた。

「あーん!」
和音が泣きそうな顔で叫んだ。
「ごめんなさいね、ほら、帽子よ」
女が足元に落ちていた帽子を拾って被せようとした。その時、一陣の風が吹いて和音の髪を靡かせた。
「きゃっ……!」
思わず悲鳴を上げた女が帽子を取り落とした。
「な……!」
男もそれを見て言葉を失う。
和音の頭にはもう一つの顔が貼り付いていたのだ。後頭部にあるもう一つの顔。その瞳が開いて彼らを見つめる。

――ねえ、あそんでよ

「ひぃッ!」
と悲鳴を上げて女は卒倒し、男はしがみ付いて来る子どもの肩を掴むと強引に引き剥がし、石段に叩き付けようとした。
「いやだ! やめて! やめてよ! おねがい!」
和音が喚く。
「だ、黙れ! この化け物め!」
男の腕が子どもを高く掲げ、勢いよく放り投げた。和音はバウンドするように石段の下に俯せに落ちた。そして、そのままぴくりともしない。

「し、死んだのか?」
男の手は震えていた。
「俺が殺したのか? この俺がこんな子どもを……。いや、違う。これは人間の子どもなんかじゃない。これは化け物なんだ。化け物が俺の妻に取り入ろうとした。だから、俺は……俺は妻を守った……」
言い訳を続ける男の視線にさっきまで俯せていた子どもがゆっくりと顔を上げ、自分を見ている事に気が付いた。
「ま、まさか……。生きているのか? どうして……」
和音は見開いた大きな瞳を男に向け、じっと視線を逸らさなかった。
「よせ! そんな目で俺を見るな! 俺は悪くない。悪くないんだ!」
男がじりじりと後ろに下がる。

「おまえ、わるいおとな。ぼく、わるいやつはきらいだ!」
和音の瞳が光を帯びる。
「せっかくこれであそぼうとおもったのに……」
和音の両手はいつの間にか男が持って来たボールを抱えていた。
「ほら、遊ぼう!」
空気が揺らぎ、和音がゆらりと立ち上がる。それは中学生くらいの少年になっていた。そして、手には野球のボールを握っている。
「キャッチボールしよう」
和音がボールを投げるとそれは空中で炎に包まれた。そのボールが男に向かって飛んで行く。

「や、やめろ! 頼む! やめてくれ!」
男は這うようにして妻の方に近づいた。
「俺が悪かった。だから、頼む。助けてくれ」
男の眼前で燃え上がったまま静止しているボールから伸びる炎が、男の前髪をちりちりと焦がした。
「ところで、ねえ、訊きたいんだ。施設って何? 何故、僕をそこにやろうとするの?」
「それは……その方が君の……君達のような子にとっては幸せな事だからだよ」
しかし、和音は鼻で笑った。
「勝手な都合で物を言うな! おまえらがどんなにいやがっても僕達は存在する。誰も僕達の生を否定出来ない。形が違っても、僕らはいる。僕は人間から生まれたんだ。おまえが望む赤ん坊の一人として、普通に生まれた。そして、片割れは殺された。醜く歪んだ心によって……。人間に殺されたんだ! だから、僕もおまえを殺す。それでおあいこだろ?」
そう言って和音が笑う。

「そんな理屈……」
男が何か反論しようとして唇を噛んだ。炎のボールが顔面を掠めて行ったからだ。
「少しくらい形が変わっても死んでしまえばみんな同じさ。そして、死んでしまえば、境界を越えて無垢の世界に行けるかもしれないよ。そこで未来に出会う赤ん坊と遊んでやればいい。もっとも、その赤ん坊が僕と同じような病気を持っているかもしれないけどね。どうか可愛がってあげてよ。そして、僕に教えてくれ。無垢の世界への行き方を……。おまえが身をもって境界に通じる道を開くんだ。僕にした事の罰として……それくらいしてくれたっていいだろう?」
お堂の前には、風が巡っていた。男は蒼白な顔をして、その場に座り込んだまま動かなかった。

「それじゃ、仕上げと行こうか」
火の粉が舞った。その中で和音が鳩笛を取り出して唇に当てた。美しい音色がそこに響いた。均一で不確かで深い谷底に吹く風のように高く澄んだ音の深淵。
男は一瞬、あまりにも美しいその笛の音に我を忘れて聞き入った。もう、この世の小さな願望やここで祈った事などどうでもいい事だったのではないかとさえ思われた。
(もう一節……)
と男は思った
あとほんの一節のメロディーが聴けたなら、自分の命さえどうなっても構わないと……。男はその旋律の中へ手を伸ばした。
「頼む。俺を殺してくれ……。その美しい音の刃で……」

しかし、和音はそうしなかった。鈴の音が聞こえたからだ。
「あの鈴の音は……。無垢のだ」
和音は哀願する男を放置したままにして、林の小道を駆けて行った。
「今日こそ無垢を捕まえる」
再び霧が湧き出て来た。
「前が見えない」
しかし、鈴の音はまだ聞こえている。
「どこだ?」
和音は耳を澄ました。
そして、鳩笛を吹き始めた。

林の木々が共鳴して枝を鳴らした。さっきまで鳴いていた虫も鳥もしんとしてその笛の音に聞き入っていた。やがて鈴の音がそれに重なった。二つの音は同じ振幅を刻んだ。そして、同じ鼓動を感じた。白い霧の向こうに水が透けるように見え隠れする異界。そこに立つ男。彼の背後には淡い光が纏わっていた。そこから赤子の笑い声が漏れて来る。
「おまえが無垢か?」
和音は笛を吹くのをやめて、静かに男に話し掛けた。
「教えて欲しいんだ。僕の……」
しかし、その声は届かなかった。無垢には聞こえていなかったのだ。和音は透ける水に手を入れようとしたがそこには何もなかった。
「生まれる前の魂が……」
しかし、それは幻でしかなかった。

「でも……知ってる。あの人を……。そんな気がする……」
一瞬だけ振り向いた無垢の横顔。そこに光が当たって穏やかな瞳からその温もりが伝わった。
「無垢は僕を抱いてくれた。他の赤子と同じように……。見てくれなんか気にしなかった。そうだよ。だから、きっと僕の片割れも……」
だが、結界は閉じていた。霧はだんだんと薄くなり、やがて彼らも見えなくなった。
「どうしたらあそこに行く事が出来るんだろう」
チリンと鈴の音が強く鳴った。
「まさか……」
もう一度……。林に残鬼が燃え上がった。そして、鈴の音……。そこに宿る鬼の残り香。

「鬼だ……!」
振り向く無垢の瞳の奥に鬼が隠れている。普段は決して姿を現さないそれが、和音の吹く笛の残響と響き合ったのだ。
「何故……? 鬼が人間の子どもを……」
彼は残鬼を握り込んだ。
「逃がさないよ」
和音が微笑む。
夕日に染まる林の奥で炎が揺らいだ。


「和音」
母が戻って来て呼んだ。
「ママ!」
和音はたちまち小さくなって幼児の姿になると母に抱かれた。
「無垢は来たの?」
母が訊いた。
「うん。でも、あれは鬼だったよ」
和音が答える。

「鬼?」
「人は鬼の手によって生まれて来る。だから、理不尽な行いだって出来るんだ」
母は首を傾げた。
「でもね、ママ。鬼はぼくをきらったりしなかったよ。だから、きっともう一度なかよくなれる」
握り込んだその手をそっと開く。そこに赤い夕日が射し込んで煌めく。

「ねえ、ママ。ぼく、かざぐるまであそびたいな。おどうに来た人がもってたんだ」
母は和音を抱いて、ゆっくりと歩き出した。お堂の前にはもう人影はなかった。供えられたままの食べ物と黄色いくまのぬいぐるみが一つ。忘れられたように置かれている。そして、格子に挟まれた赤い風車が風に吹かれ、独りぼっちでからからと回り続けていた。